言葉のかわりに−第四章・7−

 

 

――六月。

 

あのCMの夏バージョンが流れ始めた。

 

今回も弾き語りかな? なんて和磨の期待は見事に裏切られ、いつものようにクラシックの曲でピアノ演奏のみだった。

……というか、画面の中の唯はパリのスタジオで見掛けた時より、さらに痩せたような気がしていた。

 

唯は元々華奢だ。

しかし、食は細い方じゃない。

寧ろ小さいわりによく食べる方で、あれだけ毎日ピアノを弾いているんだから当たり前かと付き合っていた頃は思っていた。

学校と仕事の両立は大変なのか、それともちゃんとごはんを食べていないのか。

和磨は少し気になっていた。

 

 

そして六月も終わりに近づいたある日の夜。

和磨は拓未の部屋にいた。

 

和磨と拓未、香奈の三人で何気なくテレビを見ていると唯のCMが流れ、

「ねぇ、唯痩せたと思わない?」

香奈が徐に口を開いた。

 

すると、拓未もやはり同じ事を思っていたのか、

「やっぱ香奈もそう思う?」

と言った後――、

「今頃、ぶっ倒れてなきゃいいけど……」

ボソッと呟いた。

 

「え〜っ! やだぁ〜、心配になって来るじゃん!」

香奈はそう言うと拓未を軽く睨みつけた。

 

「んじゃ、電話してみれば?」

 

「出るかなぁ?」

 

「この時間なら向こうは昼前くらいだろうし、運が良けりゃ出るんじゃないのか?」

 

「うん、そうね」

香奈は受話器を取って電話を掛け始めた。

もちろんスピーカーボタンを押してから。

 

なかなか出ないな……と思っていると何度目かのコール音の後、受話器を取る音がした。

 

『……ぼ、ぼん、じゅ〜る……』

少し間が空いて、かすかに唯の声がした。

なんだかものすごく弱々しい声だ。

 

“まさかホントにぶっ倒れてたのか――?”

 

和磨と拓未は顔を見合わせた。

 

「もしもし、唯?」

 

『……はひぃ〜?』

 

「香奈だけど」

 

『……あ……香奈ぁ?』

 

「ちょっと……大丈夫?」

 

『……し、死ぬ……』

 

(え……死……?)

 

和磨と拓未は唖然としながら電話の声に耳を傾けた。

 

「唯! ちょっ、どうしたのっ?」

香奈も唯の様子に慌てている。

 

『……あぅ……気持ち悪い……』

 

「唯?」

 

『……頭……痛い……』

 

「風邪ひいたの?」

 

『……ううん』

 

「じゃ……」

 

『……すぎ……』

 

「え?」

 

『……の、飲みすぎ……』

 

「は?」

 

(……飲みすぎ?)

 

「……唯……もしかして……二日酔い?」

香奈は呆れた顔でそう言った。

 

『……うん』

電話の向こうで唯は小さく返事をした。

 

(二日酔い?)

 

「何やってんの……」

 

『あぅー……』

 

「……まったく、弱いくせにまた無理して飲んだんでしょ?」

香奈は段々と説教口調になり始めた。

 

(てか、唯酒弱いのか)

 

『違うよー、正確には飲まされたんだもん……』

 

(飲まされた? 誰にっ!?)

 

「誰によ?」

 

『み、みんなに……』

 

(みんな?)

 

「昨日、飲み会でもやったの?」

 

『……うん、卒業試験……受かった……お祝い……』

 

「へ? 誰の?」

 

『わ、私と友達の……』

 

「唯の?」

 

『……うん』

 

「唯、卒業試験受かったの?」

 

『……うん』

 

(卒業試験、受かったのか)

 

『……満……点……合、格』

 

「すごーいっ!!」

 

(満点合格か。すごいな)

 

『か、香奈……頭に響く……』

 

「あ、ごめん、ごめん。て事は……唯、音楽院卒業?」

 

『うん』

 

「おめでと」

 

『ありがと』

 

「じゃ、日本に帰ってくるの?」

 

『……ううん、帰らない』

 

(帰って来ないのか……)

和磨は心の中でがっかりした。

 

「えー、なんで?」

 

『演奏活動は、こっちを拠点にするから』

 

「まじでー? あ、てかJuliusとの共演の話どうするの?」

 

『……あ……えーと……』

唯はなんだか返事に困っている。

 

『……これから事務所と相談……かな……』

 

「そっか……」

香奈は唯の反応があまり良くない事に乗り気じゃないのを察したのか、それ以上その話はしなかった。

 

「あ……それより、唯」

 

『んー?』

 

「今こっちで例のシャンプーのCMが流れたんだけどさ、なんか……前より痩せたんじゃない?」

 

『そぉ?』

 

(唯、痩せたっていう自覚がないのか)

 

「そぉ? ……て、今体重何キロ?」

『最近計ってないかも……』

「今すぐ計って来い!」

『む、無理ぽ……』

「なんで?」

『起き上がれない……』

唯がそう言うと香奈は深い溜め息を吐き、

「ちゃんと食べてるの?」

母親みたいな口調で言った。

 

(二日酔い、そんなにひどいのか……)

 

『……多分』

 

(多分……? やっぱりちゃんと食べてないのかよ)

 

「多分?」

『……』

「唯?」

『……あ、そうだ……! 今度、住所変わるからー』

 

(無理矢理な話題転換だなー)

 

「もぅ! 話はぐらかして! ちゃんと食べなさいよ? ……てか、引っ越すの?」

 

『う、うん……もうちょっと空港に近いトコに行くー』

 

「そっか……新しい住所になったらまた教えてー」

 

『うん、わかったー』

 

「あと……日本に帰って来る時は連絡してね」

 

『……うん』

 

「それじゃ、またね」

 

『うん』

 

香奈は電話を切った後、和磨達の方に視線を向けると

「日本に帰って来る気、なさそうね……」

溜め息混じりに言った――。

 

 

     ◆  ◆  ◆

 

 

――七月。

 

唯は今まで住んでいたアパルトマンを出て空港に近いマンションに移った。

 

今日は唯と一緒に卒業が決まった祐介とマネージャーの橘が引越しを手伝いに来ている。

 

「唯ちゃん、金魚鉢ここに置くよー?」

そう言いながら祐介は小さな金魚鉢をベイウインドウに置いた。

 

「しっかし、なんで金魚なんだろうなー?」

祐介は金魚鉢を指でコツコツと軽く叩いた。

 

「しかも一匹って……」

祐介のその二つの疑問は拓未や香奈と同じだった。

 

その答えも和磨と同じ。

あの夏祭りで唯が掬った二匹の金魚のうちの一匹。

それがなぜか三年経った今でも生きている。

 

そして、それは和磨の金魚同様、唯を癒している存在でもあった――。

 

 

――RRRRRR、RRRRRR、RR……

 

荷解きが終わり、一息ついていると橘の携帯が鳴った。

橘は着信表示を見るなり眉間に皺を寄せた。

 

「はい、橘です」

日本語で出たという事は日本からだろう。

橘は唯の方をちらりと見た。

 

(……?)

 

唯は首を傾げながらキッチンの方へと行った。

 

 

すると、しばらくして橘が携帯で話しながらキッチンへ来た。

 

「ちょっと、このままお待ちいただけますか」

橘はそう言うと、携帯の送話口を手で押さえ、

「神崎さん、例のJuliusとの共演のお話なんですが……進めてもよろしいですか?」

と、唯に訊ねた。

 

「……」

前回話があった時は、六月の卒業試験に没頭していれば和磨を思い出す事も少なくなると思っていた。

 

だけど実際は……

 

少しも忘れてなどいなかった。

 

こんなにも和磨を忘れる事が辛いなんて思わなかった。

 

こんなにも和磨の事が好きだったなんて……。

 

こんな状態では共演なんてとても無理だ。

 

「共演の話を進めたとしても、こちらのスケジュール調整とJulius側のスケジュール調整もありますし、

 早くて半年先くらいになると思いますが」

唯が返答に迷っていると、橘が“今すぐ”の共演にはならない事を強調するかのように言った。

 

半年先……

 

それまでに和磨の事を忘れられるだろうか……?

 

だとしても……『言葉のかわりに』だけは……。

 

「どうしても……あの曲じゃないと駄目なんですか?」

唯はようやく口を開いた。

 

「……訊いてみます」

橘はそう言うと、再び携帯で話し始めた。

 

せめて『言葉のかわりに』以外の曲にしてほしい……。

 

 

「……わかりました。では、失礼します」

橘が電話を終え、唯の目の前に来た。

 

「とりあえず共演の話は進める事にしました。曲についてはまだ保留で構わないそうです」

 

「そうですか……」

唯は俯いたまま返事を返した。

 

「それから、八月からしばらく日本での取材と撮影が入っていますので、

 その間に一度ゆっくり会いたいとJuliusのプロデューサーの倉本さんがおっしゃっていました」

 

「……わかりました」

 

共演の話が進んだという事はもう後には引けない。

 

(半年……その間にちゃんと気持ちの整理をつけなきゃ……)

 

唯は橘が再びリビングへ行くと深く溜め息を吐いた――。

 

 

     ◆  ◆  ◆

 

 

引越しが終わった数日後――。

唯は日本のテレビ番組のスタジオ収録を行っていた。

今日収録する曲はショパンのエチュード三番 ホ長調 『別れの曲』。

 

“タイミング悪いな……”

 

正直、そう思った。

 

Juliusと共演する半年後までに気持ちの整理をつけよう……そう思っていたのに……。

 

 

『別れの曲』を聴くと今でも思い出すのは自分がパリへ旅立った日の事。

 

飛行機の搭乗ゲートが閉まる瞬間、和磨の声が聞こえたような気がした。

あの時……聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。

和磨が自分を呼んでいる声が――。

 

来るはずがないのに……

 

聞こえるはずがないのに……。

 

これでお別れ……本当に。

そう思いながら飛び立つ飛行機の中で涙を拭いた。

その時の事を思い出してしまう。

 

和磨と別れてから三年……。

 

(そういえば……かず君、パリで会った時もあのピアスもペアネックレスもしてた……)

 

どうしてだろう……?

もう三年も経っているのに。

てっきり自分が贈った物は全て処分したと思っていた。

なのに、何故……?

 

しかし、考えてみれば自分が忘れていないだけで和磨はすっかり自分の事を忘れたのかもしれない。

あのピアスもペアネックレスも着けていたのだってきっとたまたまだ。

 

“もう過去の人”

 

そう思っているから、自分から贈られた物としてじゃなくて普通に着けているだけ。

きっとそうだ……。

 

それに共演の話だって和磨も承知しているという事は吹っ切れているという事。

『言葉のかわりに』が未発表曲のままなのは何か理由があるのだろう。

 

(だったら……私も今度こそちゃんと吹っ切らないと……)

 

『別れの曲』……今日は和磨へ。

抱えたままの想いを吹っ切るために……。

自分の為に、橘の為に。

和磨へ向けての『別れの曲』。

 

まだすぐには吹っ切れないかもしれない……

だけど、来月日本に帰ってJuliusのメンバーと会っても今度はちゃんと笑って話せるようになっておこう。

友達として――。

 

唯は決心したかのようにピアノを弾いた――。

 

 

     ◆  ◆  ◆

 

 

――そして、八月。

唯は再び日本に一時帰国した。

今回の滞在は九月いっぱいまで。

約二ヶ月だ。

 

空港まではいつもの様に山内が出迎えに来てくれていた。

 

山内が運転する車内の中、橘の携帯が鳴った。

しかし、着信表示を見るなり橘は眉根を寄せ、あまり出たくなさそうな表情をした。

 

「……もしもし」

愛想のない言い方をしたところをみると相手は仕事関係の人間ではなさそうだ。

 

「えぇ……たった今、着いたところです」

橘はそう言うと、窓の外に目を向けながら小さく溜め息を吐いた。

 

「……ですから! その話は……っ」

いつも冷静な橘にしては珍しく少し取り乱している。

 

「……わかりました……。近いうちに一度時間を作って帰ります」

橘はそう言うと電話を切った。

いつもは相手が切るまで待っているのに……。

唯は隣でまだ眉間に皺を寄せたままの橘の様子に首を捻った。

 

“近いうちに帰る”

 

実家からだろうか?

そういえば橘は自分と同じくずっとパリにいた。

この三年間、橘も日本に帰っていない。

前回、一月に帰った時もずっと唯についていた。

 

“たまには顔を見せに帰って来い”とでも言われたのだろうか?

 

だけど、なぜあんなに嫌そうな顔を――?

 

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