言葉のかわりに−第三章・15−

 

 

孝太が帰った後――、

唯が部屋に戻って制服から普段着に着替えると、インターフォンが鳴った。

 

(誰だろう?)

 

「……はい」

ドアを開けるとそこには和磨が立っていた。

 

「か、かず君……」

唯はまさか和磨が訪ねてくるとは思っていなかった。

 

 

「コーヒー……淹れて来る、ね」

和磨を自分の部屋に通し、唯が立ち上がると、

「そんなのいいから、とにかく何があったかちゃんと話してくれ」

そう言って腕を掴まれた。

 

和磨の表情と言葉からはいつもの落ち着いた様子が感じられない。

唯はそのまま和磨の隣に座った。

 

和磨は唯の腕を解放すると、肩を抱き寄せた。

 

唯はその大きくて暖かい胸に少しだけ安心感を覚えた。

 

しかし、次の瞬間、

「……っ! 唯……これ?」

和磨の驚いた声が聞こえた。

 

唯はハッとし、自分の身に起こったおぞましい出来事を思い出した――。

 

 

それは昼休憩、今日も和磨はJuliusのファンの子達とあの有坂一美に囲まれていた。

 

その人だかりから逃げるように音楽室へと向かった唯。

そして、音楽室のドアに手を掛けたところで、

「神崎さん」

誰かに声を掛けられた。

 

「ちょっと……話があるんだけど、いい?」

それは同じクラスの町田健一だった。

 

「……? うん」

 

 

町田はあまり人に聞かれたくない話だからと体育館倉庫に唯を連れて行った。

ここなら人が来る事はまずないし、ボールや用具を取りに来たとしても奥にいれば気付かれない。

 

「……話って……何?」

唯は何故こんな所にわざわざ自分を連れて来たのか怪訝に思い、恐る恐る口を開いた。

 

「あの……さ」

町田は唯に振り返ると、

「篠原とは本当に付き合ってんの?」

そう訊いてきた。

 

「え?」

唯は正直、一番訊かれて困る質問が来たな……と思った。

相変わらず、はっきり「付き合っている」とは答える事が出来ない。

 

「付き合ってないの?」

黙り込んでしまった唯に町田が一歩近づいた。

 

「……」

唯は黙ったまま動けないでいた。

 

「篠原とはなんでもないんならさ……」

すると、町田はまた唯に一歩近づき、

「俺と付き合わない?」

と言った。

 

(え……)

唯は驚いた表情のまま、例のごとく固まってしまった。

 

「前から神崎さんの事、好きだったんだ」

町田はそう言うと唯の腕を掴み、引き寄せた。

 

「きゃっ……」

唯は小さく声をあげ、町田の胸に倒れ込んだ。

すぐに体を離そうとしたが町田は唯の体と右腕を壁に押し付けた。

 

「何するの……っ!」

 

「……俺と付き合ってよ」

町田はにやりと笑うと唯にキスをしようと顔を近づけた。

 

「や、やめて……っ」

唯は空いている片方の手で町田を押し退けようと抵抗し、顔を背けた。

町田はその腕を取ると右手と同じ様に壁に押し付けた。

 

「町田くん……やめてっ」

 

「あんまり騒ぐなよ」

町田はそう言うと、唯に無理矢理キスをした。

そして首筋をきつく吸い上げ、赤い痕をつけた。

 

唯はもう何がなんだかわからない。

 

ただ“町田から逃げなくては”……それだけはわかっていた。

だけど両手は押さえつけられているし、足もすくんで思うように動かない。

 

「恨むんなら、篠原を恨めよ?」

そう言って唯の制服のリボンに手を掛けた町田。

 

(かず君を恨め? 一体どういう事?)

「町田くん……お願い、やめてっ」

唯がそう言っても、町田の手は止まらない。

 

「“彼女”を放っておいて、ファンなんかと一緒にいるから……俺にこんな事されてても助けにも来ない」

町田はにやりと笑ってそう言った。

 

「いやぁ……っ! やめて!」

唯が声を上げると、

「静かにしろって」

町田はチッと舌打ちして片手で唯の口を押さえた。

 

「……んんっ!」

叫ぶ事もできず、片手で抵抗しても逃げる事も出来ない。

 

もう駄目……。

 

(かず君……、かず君……!)

 

唯はどうする事も出来ず諦めかけたその時――、

「おいっ! 何やってんだ!?」

町田の後ろから声が響いた。

 

町田が振り返ると同時にその人物は町田に掴みかかり、唯から引き剥がした。

唯は体が自由になったと同時に力が抜け、その場にすとんと崩れるようにへたってしまった。

 

「唯、大丈夫か?」

唯がゆっくりと顔を上げると、その人物は町田を押さえつけたまま心配そうな顔を向けていた。

 

「コ、コウちゃん……」

唯を助けたのは孝太だった。

 

唯は孝太の姿を見るなり、涙をポロポロと流して泣き始めた。

 

「唯……」

泣き出してしまった唯を見て、孝太は町田を押さえつけていた手を放し、唯に駆け寄った。

 

その隙に町田は立ち上がると孝太に殴り掛かってきた。

 

「……このっ!」

町田の右ストレートが見事に孝太の顔面に決まった。

 

「コウちゃんっ!」

 

「……くっ」

孝太が顔を押さえながら立ち上がる。

そして「唯、どいてろ」と言って、町田に殴り掛かった。

 

「コウちゃん、やめて!」

唯がそう叫んだ時には既に遅く、先程のお返しとばかりに孝太の右拳が町田の顔面にヒットしていた。

 

「や、やめて……、二人とも」

唯がオロオロしている中、二人はまったくやめる気配がなく殴り合いを始めた――。

 

 

しばらくして二人の男性教諭が孝太と町田の間に止めに入った。

体育館倉庫の中が騒がしくなり、不審に思った生徒が先生を呼んだらしい。

 

孝太と町田はそのまま保健室へ行ってケガの手当てを受けた後、職員室へ連れて行かれた――。

 

 

「それ……誰につけられたんだ?」

和磨の声が聞こえ、気が付くと首筋を隠していた手を捕まれていた。

町田につけられたキスマークが露になり、唯は和磨から目を逸らして俯いた。

 

「唯」

 

和磨に呼ばれても、顔を上げる事が出来ない。

 

一番見られたくない人に一番見られたくないものを見られてしまった……。

 

「いつつけられたんだよ……?」

それでも和磨は追及をやめようとしない。

 

訊かないでほしい……。

 

だけどそんな事は言えない。

 

「もしかして……長瀬?」

和磨に孝太につけられたのかと訊かれ、唯はすぐに否定するべく首を横に振った。

 

「それじゃ、誰だよ? 何があったんだ?」

否定をしたらしたでまた追求される事はわかっていた。

だけど、ここで町田の名前を出せば『何故町田と? 何があった?』と訊かれ、結局全部話さなければいけなくなる。

 

それだけは嫌だった。

 

町田があんな事をしたのには訳があった。

有坂一美に頼まれた……と。

有坂は和磨の事が本気で好きらしい。

要するに唯が邪魔で仕方なかったのだ。

そこへ前から唯を狙っていた町田に話を持ち掛けた……と言っても、町田本人が言っていただけで真意は定かではないが、

おそらくそうなのだろう。

町田は自分だけが悪者になるのが嫌であっさりとその事を担任の島田に白状したらしい。

孝太が唯を助けに入ったのは、たまたま体育館倉庫にバスケットボールを取りに行ったら、

奥から悲鳴がしたから……という事だった。

 

「……」

唯は町田にされた事も、有坂一美が絡んでいる事も話したくなかった。

何より、町田が言った言葉が引っ掛かっていた。

 

“恨むんなら、篠原を恨めよ?”

 

“彼女を放っておいて、ファンなんかと一緒にいるから……俺にこんな事されてても助けにも来ない”

 

現に助けに現れたのは和磨ではなく、孝太だ。

それがたとえ偶然だったとしても全てを知れば和磨を傷つけてしまう。

 

「長瀬じゃないなら、誰なんだ?」

和磨にいくら訊かれても唯はただ黙っているしかなかった。

 

「唯、どうしたんだよ? なんで何も言ってくれないんだ?」

和磨が苛立ち始めている。

唯にもそれはわかっていた。

だが、わかっていても答える事は出来ない。

 

「長瀬になんかされたのか?」

唯はその事だけは首を振って否定をした。

孝太に何かされたのではなく、寧ろ自分を助けてくれた……あんなケガまでして。

 

「黙ってちゃなんにもわかんないだろ?」

和磨は明らかに怒っている。

 

「唯っ!」

唯は和磨に怒鳴るように名前を呼ばれ、体をピクリとさせた。

こんな風に和磨に怒鳴られるのはもちろん初めてだ。

唯は唇を噛んでギュッと目を瞑った。

 

 

そして、そのまましばらく待っても何も話そうとしない唯に和磨はとうとう痺れを切らした。

「……もう……いい」

和磨はそう言い、大きく溜め息を吐くと、

「……もう好きにしろよ」

唯にそう言い残し、帰って行った――。

 

 

和磨が帰った後――、

唯の目に涙が溢れた。

 

とうとう和磨を本気で怒らせてしまった。

だけど仕方がない……。

和磨に話す訳にはいかない。

 

それに三月からは音楽院の試験に受かっても、受からなくてもパリに行く事が決まっている。

そうなれば、最低でも三年は会えない。

音楽院を卒業したとしても、日本に活動拠点を置く事は考えていない。

そうなれば和磨の心は自分と離れていってしまうだろう――。

 

それならば、このまま別れた方がいい。

和磨は何も知らないで済む。

その方が彼の為。

自分の事などすぐにきっと忘れてしまう。

 

そして、きっとすぐに新しい人が見つかるはず――。

 

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