千の夏とたったひとつの願い事 −After Story 章吾視点・4−
「ま、待って……っ!」
踵を返した瞬間、笑顔が消えた彼女の背中を追いかけ、僕は両腕で後ろから抱きしめた。
「っ」
有川さんはビクリと肩を震わせて驚き、歩みを止めた。
「……行かないで、ほしい……」
「並枝、君……?」
「行かないで……」
「な、何言ってるの? そりゃ、今までずっと一緒に働いてきたから
寂しいのはわかるけど……」
「違うよ、そうじゃないっ」
「……っ」
「僕……やっと気が付いたんだ。有川さんから結婚するって聞いた時……、やっと気が付いた」
「……何に?」
「有川さんが好きだって事に」
「っ」
「今までずっと傍にいて、それが当たり前みたいになってて……気付けなかった」
「ま、待って、でも、並枝君の中には幼馴染みの女の子がいるんでしょ?
いつも写真を引き出しの中に入れてるのも、オペが終わった後に一人で空を眺めてるのも、
その女の子を想ってるからなんじゃないの?」
「……確かに、いつもオペの前にチィちゃんの写真に話し掛けてる。
終わった後も空に向かって話し掛けてる……」
「じゃあ、やっぱりそれは私の事が好きなんじゃなくて……寂しいだけなんだよ」
「違う……、僕がチィちゃんの事を思い出すのは……今はオペの前と後だけ」
「……“今は”って?」
「僕はチィちゃんが死んでから……ずっと毎日チィちゃんの事を思い出して一人で泣いてた……。
だけど、チィちゃんと同じ様に苦しんでる人を一人でも救う為に医者になろうって決心して
医大に入る為に勉強をした。
医大に入ってからは医者になる為にもっと勉強をした……でも、それからは一人じゃなかった。
いつも僕の傍には有川さんがいた、合同実習で仲良くなって、そのうち課題も一緒に
やるようになって……卒業してからも同じ病院で働く事が決まった時、すごく嬉しかった。
研修医から正式なドクターになった時も真っ先に有川さんが『おめでとう』って言ってくれて
他の誰に言われるよりも嬉しかった……初めてのオペも僕の隣に有川さんがいてくれたから、
乗り越える事が出来たんだ……それからだってずっと、いつも傍に有川さんがいてくれたから、
チィちゃんがいなくても僕は立っていられたんだ……」
「私がいたから……なの?」
「そうだよ、有川さんがいてくれたから……僕はチィちゃんの事を思い出しても辛くなくなった。
思い出さなくても強くなれた……。
僕がオペの前に写真の中のチィちゃんに話し掛けているのは、オペが成功するように……、
オペの後に空を見上げてるのはオペが無事に終わったよっていう報告っていうか……、
僕の中での心を落ち着かせる儀式みたいなもので……、だけどいくらそれで心を落ち着かせる事が
出来ても有川さんがいないと……有川さんがいなくなったら僕はきっと今度こそ……立ち直れないっ」
「じゃあ、どうしてあの時『結婚なんかするな』ってハッキリ言ってくれなかったの?」
「あの時は、有川さんがいなくなるっていう事がショックだったけど……、
僕の中でこんなにも有川さんの存在が大きかったなんて気付いてなかった……。
それに、まさか……有川さんが僕の事を好きだったなんて思わなくて……、
勇気が出なかったんだ……」
「……」
彼女はどうしていいのかわからない様子でゆっくりと俯いた。
だけど、次の瞬間……
彼女の肩に回している僕の手にぽたりと雫が落ちた。
(有川さん……泣いているの?)
「並枝君……放して……?」
震えながら少し掠れた声が聞こえた。
「……嫌だ」
「お願い……放して」
「嫌だ、有川さんが好きだっ、だから……行くな! 結婚なんかするなよ!」
「もうっ、並枝君のバカッ!」
有川さんは僕の腕を振り払った。
(やっぱり……有川さんはもう……)
「……そういう台詞は、ちゃんと顔を見ながら言って欲しかったのにっ」
しかし、くるりと振り返った彼女が僕の胸に顔を埋めた。
「え……」
「本当に私の事、好き……?」
「うん、好きだよ……」
僕はもう一度彼女の肩を抱いた。
「でも……私、彼との結婚断っちゃったら、誰とすればいいの?」
「もちろん、僕と」
「じゃあ、もう一回言って……? さっきの台詞」
ゆっくりと顔を上げる有川さん。
「……好きだよ。他の男の所へなんか行くな……僕と結婚しよう」
「うん」
そう言って頷いた有川さんの瞳からは大粒の涙が溢れていた。
白衣のポケットからハンカチを出してそっと拭くと……
「あ……」
「並枝君、それ……」
僕がハンカチだと思って出した物……それは怪我の処置等に使うガーゼだった。
(あー、忘れてたー)
「ご、ごめんっ、え、えーと……実は今日、うっかりハンカチを忘れちゃって……ちょっと、
ナースステーションにあるガーゼを貰っちゃった」
「……もう、しょうがないなぁー。でも、そういうトコ、昔から変わらないね?」
有川さんはプッと吹き出した後、泣きながら笑った。
「こんな頼りない僕だけど、これからもよろしくね、ずっと……」
そして、僕は彼女の唇にキスを落とした。
深く……
深く――。